< 平安宮 (大内裏 だいだいり) と 内裏 (だいり) >

平安京内裏図平安京の北辺には宮城である 平安宮(大内裏)があり、その内部の中央東寄りに南北約300m、東西約200mの内裏が存在しました。内裏とは,天皇が住み,儀式や執務などを行う宮殿のことで,禁中・禁裏・御所などともいいます。

平安宮内裏は延暦年間(782〜806)に造営されました。内裏の正殿を紫宸殿(ししんでん)と呼び,天皇の日常の居所である清涼殿(せいりょうでん)がありました。内裏の周囲には朝堂院(ちょうどういん)・豊楽院(ぶらくいん)や二官八省をはじめとした官庁が並びそれらは廊下によって結ばれていました。諸官庁のまわりは大垣(築地)で囲まれて、その囲まれた区域を平安宮(大内裏)と呼んでいました。

大内裏の諸官庁は災害でたびたび被害を受け,その都度復興されましたが,11世紀になって天皇が幾度も火災に見舞われ大内裏外の里内裏(さとだいり)に常住するようになり、大内裏内の内裏の意義は低下してきました。

平安宮内裏は,14回もの焼失・再建を繰り返しましたが,嘉禄3(1227)年4月再建途中に焼けたのを最後として,宮城内の内裏は廃絶しました。大内裏内外の諸官庁も平安時代後期頃から廃絶するものが増え,13世紀になると大内裏の跡地はいつしか内野(うちの)と呼ばれる荒れ野になりました。

<里内裏(さとだいり)>

 内裏火災の度に,天皇は京内の藤原氏の邸宅などに移り住み,そこを里内裏と呼びました。11世紀半ばから天皇は堀河院・一条院・枇杷殿(びわどの)・京極殿・東三条殿などの里内裏に常住することが多くなりました。

里内裏の一つであった土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)を光厳天皇(こうごんてんのう)が居所と定めてからは,北朝の主たる皇居として定着,明徳3(1392)年,後小松天皇の在位時に南朝より三種神器が渡され,南北朝が合一されると,以後,他所へ移ることなく,この場所が皇居と定まりました。

<現在の京都御所>

天明8(1788)年に天明大火で焼失した際,幕府は老中松平定信(まつだいらさだのぶ,1758〜1829)に命じて内裏造営にあたらせました。

寛政2(1790)年,定信は裏松固禅(うらまつこぜん,1736〜1804)の『大内裏図考証』(だいだいりずこうしょう)に従い承明門・紫宸殿・清涼殿などの一郭を平安時代の形式で復元再興しています。

安政元(1854)年にも焼失しますが,翌年には寛政時と同規模で再建されました。これが現在の京都御所の建物です。


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